星団日記

中央市議会議員なとり義高です。

一流の田舎をつくる

 昨年11月、福島で開催された全国市議会議長会フォーラムで、私が今まで考え願っていたまちづくりの根本姿勢とぴったり共感できるお話を伺いました。なんとか、山梨でも政治家たちに聴いてもらいたいと思い実現したのが、2月4日の山梨県市議会議長会後期議員研修の講師役重眞喜子(やくしげまきこ)さんの講演です。役重さんは現在、花巻市コミュニティーアドバイザーですが、東大法学部卒の元農水省キャリア官僚という珍しい肩書きがあります。都会育ちの彼女がなぜ東北岩手の東和町に住み、牛を飼うという数奇な人生を歩んだのか。

 

 農水省の農村研修で「大草原の小さな家」を夢見る乙女が本物の田舎と出会いすっかりとりこになってしまいます。当時の町長小原秀夫さんの助力で、役重さんは農水省を辞めずに町に異例の出向という形でやってきます。「理念のないまちづくりはあり得ない。『お上を』を向くのではなく、『住民』を見つめよう。」という言葉を残した小原さんは、阪神大震災の被災者受入条例を制定したり、自主減反を提唱したりと先駆的な行政手腕をふるいました。やがて、農水省を離れ東和町に定住し牛を飼い、同僚のカズちゃんと結婚し、男子を出産し4ヶ月後に重い病気にかかります。その中で彼女はいつも回りの人に支えられてきたことに気づきます。「すべてのこの町の人たちが、なぜいざというときに自分のことよりも他人のために一生懸命になる事ができるのか。それは、皆、小さいころから隣同士が当たり前のように助け合い、手を貸し合って生きていくのを見て育ったからだ。そうでなければ生き抜いてこれなかったからなのだ。厳しい自然の中で、人間という小さく弱い生き物は、支え合い、時には自分を抑えながら協力し合わなければ、生きていけない。その大切な記憶は、いまだ農村の人々の間に、相互扶助の慣習や制度という形で息づいていたのである」

「はみだしキャリア奮戦記・ヨメより先に牛(ベコ)が来た」(家の光協会2000年発行)

 

 まちづくり=コミュニティーを造るには、そもそも集落が生まれた何百年も前からの途方もない時の流れが必要です。ここリバーサイドタウンは1世代~2世代40年に満たない歴史しかありません。豊富では浅利与一公にさかのぼる源平の時代から数百年もの死線を越えた人と人の関係があったことでしょう。だからこそ、伝統や風習、祭りなど地域にかけがえのないものが生み出され今に伝わってきたのです。地域に生きる覚悟、まちづくりにかける情熱なくして歴史の積み重ねはないのです。

 

 地域創生、一億総活躍社会が叫ばれる中、「地方から都会への人の流れを変える」と繰り返しいわれていますが、「コンパクトシティーの名の下に二流の東京をつくるより、都市を支える一流の田舎をつくる。」と役重さんは講演会でばっさり。ふるさとを持たなかった彼女に、農村という営みの中で、これまでに出会った大切な市井の人たちの伝言(ことづて)が託されているのです。